■寺島実郎の発言

ハンガリーと日本との宿縁――原爆、ソロス、和久奈南都留
岩波書店「世界」2009年12月号 脳力のレッスン92

 
 ハンガリーのブタペストを訪れた。十四年ぶりの二度目の訪問であり、ハンガリーについての情報が蓄積されていたので、見えるものがまるで違ってみえた。前回は、半日かけてドナウ河を船でウィーンからブタペストに向かい、トカイワインなどを飲みながらの長閑な旅だったが、今回は汽車でウィーンから約三時間をかけての旅であった。司馬遼太郎も「一度はハンガリーに行きたい」と言っていたというが、結局最後まで機会がなかったと何かで読んだ。子供のおしりに蒙古斑がでる西端がハンガリーだといわれるが、モンゴル語を学んだ司馬の関心を惹いたのかもしれない。

ハンガリーの宿命

 事実、一二四一年〜四二年にかけハンガリーはモンゴルの侵攻を受けており、ユーラシア地図におけるハンガリーをみつめると、この地がユーラシアの民族の隆替と移動のダイナミズムの中で翻弄されてきたという位置感覚が分かってくる。
 そもそもハンガリー人の始祖がこの地に定住したのは九世紀末、八九五年頃からで、南ロシアのスラブ地帯から「異教の野蛮人」といわれた騎馬民族のマジャール人が移住してきてからだという。一〇世紀末以降、マジャール人国家の建設が本格化し、AD一〇〇〇年にイシュトヴァーンT世によるハンガリー王国がスタートした。前記のごとく一三世紀には、モンゴルの侵攻を受け、国王ベーラW世は一時とはいえ国を捨て逃亡するという事態を招き、人口の半分ともいえる約百万人が虐殺された。日本へのモンゴルの来寇は一二七四年(文永の役)と一二八一年(弘安の役)であり、「モンゴルの世紀」たる一三世紀には、ユーラシアの東西一万キロも離れた地で「タタールの嵐」が吹き荒れたのである。
 その後、一五二六年から一六九九年までの一七三年間は、オスマントルコの支配を受ける。今日でもブダペストに多くの温泉施設があるのもその名残りだが、まさにイスラムによる欧州侵略、つまり神聖ローマ帝国の中核都市ウィーン攻撃の前線となったのがハンガリーであった。オスマンが引いた一六九九年からはハプスブルク王朝の支配下となり、一八六七年からはオーストリア・ハンガリー二重帝国体制を生きた。そしてハプスブルク家の栄光とともに並走したハンガリーは、第一次大戦を経た「帝国の解体」で一気に圧縮される。
 第一次大戦で敗北したハンガリーは、一九二〇年のトリアノン講和条約で領土の三分の二を失った。条約改正による失地回復が民族の宿願となり、ナチス・ドイツとムッソリーニのイタリアに接近し、一時は「ウィーン裁定」でスロヴァキア南部とトランシルバニア北部を奪回した。ところが四四年三月、ドイツは同盟国ハンガリーを占領、ハンガリーは独ソ戦の激戦地となり国土は荒廃、一九四七年のパリ講和条約で、再び第一次大戦後の国境に戻され、今日に至ったのである。
 P・レンドヴァイの『ハンガリー人―――光と影の千年史』(稲川照芳訳、信山社)によれば、こうした歴史の中でハンガリー人は「反抗の力と生き延びる術」を身につけたという。「ハンガリー人であるという集団ノイローゼ」という表現さえ国際社会では耳にするが、「例外的ともいえる孤独感を抱き続ける」独特の孤高の民族性が形成された。三分の一が海外に住むといい、その意味でもユダヤ人に通じるが、第二次大戦後のイスラエル建国まで国家を持たない流浪の民であったユダヤ人と、「中欧の大国ハンガリー」という国家への共同幻想を強く潜在させるハンガリー人、そしてハンガリー系ユダヤ人という混血の存在が多く海外に展開したことによる物語が始まるのである。

原爆開発とハンガリー人研究者

 ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下に至る経緯を調べると、三人のハンガリー人科学者との因縁に辿りつく。このことは先述のレンドヴァイの著作にも論及されているが、世に「ハンガリーマフィア」とも呼ばれるシラードとイェネ・ウィグナー、そして「水爆の父」として知られるエドワード・テラーの三人が果たした役割はあまりにも重いのである。一九三九年三月、ドイツから亡命した原子物理学者シラードがコロンビア大学の実験室で、友人から二〇〇〇ドルを借りてラジウムを購入し核分裂が中性子を生成することを確認。そして、ナチス・ドイツが先行して原爆開発を成功させることを懸念した彼は、同じくハンガリー出身のプリンストン大学教授ウィグナー(後のノーベル賞受賞者)と共に行動を起こす。アインシュタインに働きかけ、ルーズベルト大統領にアメリカによる原爆開発を提言するのである。曲折はあるが、ルーズベルトが招致したウラン問題のための六人委員会のメンバーに前記のハンガリー人研究者三人が参加、国防省の支援の下シカゴにおける実験が始まり、「制御された核分裂の連鎖反応」が可能となったのは一九四二年一二月であった。それがロスアラモスでの原爆製造(マンハッタン計画)につながり、一九四五年夏、ヒロシマ・ナガサキの上空で炸裂するのである。
 歴史の皮肉というか、不可思議な因縁の連鎖を思わずにはおれない。ハンガリーという地に発する「悪意無き知性」の相関が結果としてもたらす悪魔的結末に、我々はただ呆然と立ち尽くすしかないのだろうか。王宮の丘からドナウ河、そしてブダペストの美しい街並みを見渡しながら、私は目眩を振り払うように苦いハンガリアン・コーヒーを飲んだ。

ハンガリー人の存在感

 改めて驚かされるほど、ハンガリー人は世界の様々な分野で活躍してきた。『イデオロギーとユートピア』『人間と社会』などの作品を通じ、私自身が社会科学的方法論に強い影響を受けた知識社会学の先駆者カール・マンハイム、政治経済学のカール・ポラーニと弟のマイケル・ポラーニ、『階級意識論』の著者でマルクス主義哲学のジョージ・ルカーチ、さらにコンピュターの草創期を支え、「ゲームの理論」を創造した天才J・F・ノイマン、音楽家バルトーク、指揮者ユージン・オーマンディと枚挙に暇ない。またジャーナリズムの世界での最高栄誉たる「ピューリッツァー賞」を残したヨーゼフ・ピューリッツァーも一七歳で米国に移住したハンガリー人であり、四一歳で盲目になるまで驚嘆すべき情熱でニュース・ジャーナリズムを変えていった。国際金融の世界で名を馳せるジョージ・ソロスもハンガリー出身のユダヤ人である。ロンドンで『開かれた社会とその敵』の著者であるカール・ポパーの弟子として哲学を学んだ後、ニューヨークに渡り、「ヘッジファンドの帝王」と呼ばれるまでに存在感を高めた。評価の難しい人物で、金融ビジネスの世界で「世界一の投機家」であると同時に、「世界一の慈善活動家」として世界中の民主化運動を支援し続けている。生まれ故郷のブダペストに「セントラル・ヨーロッパ大学」を寄付し、運営資金を提供して中欧経済を支える人材の育成に力を入れている。私はソロスとマンハッタンの彼のオフィスで三回面談したことがあるが、彼自身が対峙してきた全体主義(共産主義とナチズム)を拒否して「開かれた世界」を目指す強い意思と歪んだグローバル金融資本主義に対する鋭い問題意識には深く刺激されてきた。
 和久奈南都留という彫刻家がいた。実はワグナー・ナンドールというハンガリー出身の人物で、スウェーデン亡命中に日本人女性と巡り会って結婚、日本に帰化した。一九六九年に来日、九七年に亡くなるまで創作活動の場とした栃木県益子町には彼を記念するアートギャラリーが設けられている。
 一九二二年にトランシルバニア地方ナジュバラドに生まれたというが、この地は現在ではルーマニア領オラデアである。ブダペスト国立美術大学入学後、第二次大戦に志願して重傷を負う。戦後国立博物館に勤務するが、スターリン時代に公職追放となり、彫刻家としての活動に入る。一九五六年のハンガリー動乱に際して文化人代表としてソ連軍と戦い、弾圧を受けてスウェーデンに亡命せざるをえなかった。
 時代に翻弄されながらも、二〇世紀のユーラシア大陸を創造的に生きぬいたハンガリー人が我々の至近にいたという事実に驚かされる。ブダペストのゲレルトの丘に設置された二八体の彫刻からなる「哲学の庭」も益子駅前のモニュメント「アローム・夢」も、異郷の地に生き、平和の意味を問い続けた芸術家の発信するメッセージに心動かされる。
 
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